【散文気分】 ── 二○十九年七月二十八日(日)── 曇りのち晴れ(藤沢市)

 七月も終わりに近い日曜日の朝。 真蒔(シンジ)は八時前に起床したばかりだったが空腹に耐えかね、暑いのに仕方なく小さなフライパンを火にかけ目玉焼ご飯にする。 目玉焼きはチンした冷凍ご飯に直接のせ、そして適当にしょう油を振りかけ、ぐちゃぐちゃと掻き混ぜてから頬張った。 彼はそんな食事を終えたことでやっと朝が始まったような気がしていた。 毎朝の歯磨きの最後に舌を磨いていて『おぅえっ!』となる時にも目が覚める気がしているようだ。

 前日の記録付けは少し長いものとなった。
朝食後はパソコンに向かい、前夜は眠くて先送りにしていた自分の記録をタイプしていた。 特筆すべきことでもないが、それでも残しておくべきことばかりのようにも思えていたからだ。

 そんな記録付けが段落すると、彼は先週末に買い物したまま放っといた紙袋からTHE NORTH FACEの赤いリュックを取り出し、ゆっくりと丁寧にアレやコレをいじってみた。 衝動買いには違いなかったが満足していた。天候のすぐれなかったこの週中にその出番は相応しくないと確信し、この日の朝までそのままにしておいた。 開封するのは使う直前と決めていたからだ。出掛けにバタバタと準備するのも嫌なので必然的に晴天の休暇が妥当だったのだろう。


 真蒔はリュックのパッキングを終えて前カゴに入れると十時過ぎに自転車で外出する。

 途中の山田橋では事故で軽自動車が川に落下していて引き上げ作業中だった。フロントガラスは粉々だが車体の原型は取り留めていた。 警察が引き上げ作業を取り仕切り、偶然にもすぐ隣にあった消防訓練所のレスキュー隊員らが応援(?)活動からちょうど引き上げているところだった。 普段は通行する車両や登下校の時間帯に生徒らぐらいしか見かけないこの付近に多数の見物人がいるので、それすらも見慣れない光景として眺めていた。

 あたかも目的などは無いといった風に彼はとろとろと自転車をこぎ進め、下河内の田んぼ端で尻ポケットから愛用のキャノンを取り出した。 さっき車が落ちていた川に並行する森が、午前中のこの時間帯では大きな日陰を作っている。なので狭いながらもこの一角は稲作の面であまり好ましくない条件なのかもしれない。 けれどもアマガエルにとってはきっと好条件なのだ。いつでもたくさんのアマガエルを見つけることが出来た。 彼はセリの花の上に居座っているアマガエルを愛らしく感じながら数枚ほど撮影した。


 小一時間もかかる道のりではなかったが決して三十分でたどり着けるそれでもない。 少なくとも彼の持つ自転車では彼が使う限りにおいて無理ということなのだ。 さらに行程の途中でカエルを撮影している者がそれを求めているとは、なおさら考えられない。 仮に何かの約束ごとがあったとしても、かなりゆとりをもった行動だったのだろうとも推測できる。 そして、例えば約束ごとなどとは異なる、特に時間には縛られない類の目的があったのだとしたら。
それは一体どんな内容だったのだろうか。

 先週の日曜日に続いて彼は辻堂のテラスモール湘南に向かっていた。 先週と同じ駐輪場に自転車をデポしてから少し考え、広い遊歩道を歩いてモール伝いに進み、JR辻堂駅に面したコンビニまで行った。 店内へ入ると真っすぐにレジ待ち位置へ進み、店員から声が掛かるとホットコーヒーのレギュラーサイズを一つだけ注文した。 レジ横のマシンからセルフでコーヒーを入れて外へ出ると、日陰のベンチには少し早めのランチを取っている人たちが随分と見られた。 目の前には飲食店を多数伴う広大なショッピングモールがあることを踏まえる立場から、そんな光景に対して違和感を感じていた。 しかしすぐに思い直して頭を掻きながら、『オレもそうするんだろうな、多分』 と小さく声に出してつぶやいた。

 紙製の熱いコーヒーカップを持ちながら、そうしたベンチの間をすり抜けて喫煙スペースへ入り込み、そうする間だけ地面にカップを置きつつ煙草に火を点けた。


 彼女とここで一緒に煙草を吸ったことが何回あったのだろう。 恐らくは片手で事足りる程度の数字でしかないはずだ。 色々と会話をしながら過ごしていたのだが今では何一つ思い出すことが出来ないようだ。 ピアノの得意な彼女とはここで映画を見るために約束し、そして会っていた。 いずれの時にも誘いの連絡をもらい、出掛けて行った。 そんな映画の時間が終わるとモールの中を会話しながら歩き、そして適当と思われる頃合いに別れていた。


 そんなことを思い出していたのが先週の日曜日のことだった。 今日と同じくして自転車で、彼は気の向くままに撮影しながらとろとろ出歩いていた。

 彼には少し入れ込んで走り続けていた時期が以前にあり、その頃の名残りのように今でも意識の中には彼なりの二十キロメートル・コースという周回ルートがある。 その日はそうしたコースに準じた経路を自転車でたどっていた。 周回コースを時計回りで進むことを順行、反時計回りを逆行と彼は呼び分けてきた。 その日も今日と同じく順行で進んでいた。

 ちなみに彼が自己ベストを更新し易かったのは逆行の方であったらしい。 それは順行での終盤には長い上り坂の区間があるせいだった。 周回コースであるにも関わらず、そのような区間は逆行では存在していない。 初めはただ漠然と彼も不思議に感じていた。 しかしその理由はシンプルで、長く急な坂道の中腹にある彼の自宅付近を彼はスタート地点にもゴール地点にも据えていなかった。 下ったなりの平地、上がったなりの平地にそれぞれの地点が設定されていた。 よって一見すると周回コースのようだがその実態は低地から上がるか、高地から下るかの双方向経路であることに過ぎなかったのだ。

 そうした(今ではもっぱら)自転車散歩のコースを外れ、彼は自分一人でショッピングモールを見物してみたいという衝動に駆られたのも、つい先週のことだった。

 大庭隧道は彼に辻堂方面へのアクセスを連想させる。 隧道を通って自宅最寄り駅と辻堂を結ぶバス路線もある。朝夕はかなりの繁盛路線だ。 そんな大庭隧道の出入り口付近にあたる交差点を信号待ちしてから渡り、そしてゆっくりと少し進んだ辺りで周回コースから外れ、彼はJR辻堂駅方向へと自転車を走らせ始めていた。

 主要道路から少し外れた住宅街の細い道路をある程度には見当を付けながらゆっくり進んでいった。 ゆるやかな起伏がいつまでも連続し、真っ直ぐな道のりは殆んど無い。 きっと区画整理などのあまり入らなかった古い町並みのままに現在の新しい住宅が建てられているのだろうなと想像した。 ほんの小さいながらも畑すらまだ耕されていた。


 彼はそんな振り返り事をして根元まで煙草を吸い続けてから喫煙所を出た。 そのままモール内へ入ると、その冷房の利き方に圧倒された。文字通り背筋が寒くなる思いだった。 このままここにいて本当に大丈夫なのだろうか?という危機感寄りの意識すら働く。 けれどもそんな不安などは知る由もないかのように、汗はとても効率的に引いていくのを彼は感じ始めていた。

 ふらふらとDONQ前を少し通り過ぎて考え直し、戻って店頭のトレーとトングを掴むとハーフサイズのバゲットを一つ選んでトレーにのせた。 どうやら真蒔の昼食らしい。彼には時々フランスパンを一本丸ごと食べたくなることがある。食べ始めると止まらなくなるようだ。

 ちょうど昼時のためかレジ待ちは並んでいる。 決してそうした状況を意識するからではないのだが、順番で呼ばれたレジ前で彼は『あの、簡単でいいですから』などと告げている。 もちろんレジ店員は笑顔で受け止めているが、その無駄もなく小気味よい作業を眺めていれば容赦なく食べ残し用のビニール袋その他が付け添えられようとしている。 なので真蒔はまた『あ大丈夫です、それ要りません』と分け入って告げている。 そして商品を受け取る段に至ってはパンの入った紙袋がさらにビニール袋へ入れられようとしているので、もはや手を振りかざしながら『紙袋のままで大丈夫です』とまで言っている。 実はこのようなやり取りは彼にとって初めてではない。そしていつも、いつもこう思うのだ。

 『まあいいや。次からパンだけ入れた紙袋のまま下さいって言ってみよう。』

…とても残念なことだが、 彼はパン屋でパンを買うためだけに生きているワケではない。

 その気の毒なレジ店員はそうした昼の繁忙時間帯を仮設レジまで駆使しながら捌いていたのだが、いつものペースを真蒔から乱されたためなのか、危うく釣銭を間違えるところだった。 そんな誤りの回避にはもちろん…皮肉にも、と言うべきか 真蒔が役立っていたのだが。


 今日、彼はHELLY HANSEN側から入店して物色してみることにした。THE NORTH FACEとは隣同士というよりも店内では完全に繋がっている。 間口だけがあたかも別のショップのような造りだった。実はあまり顔を覚えていないのだがそれらしい女の子はレジカウンターにいた。 真蒔にとって今日の目的は購入や冷やかしではなく見せびらかしなので、やはり少し気が引けるのだ。 HELLY HANSEN側から入店したのは、先週ここで接客を受けた時に彼女のネームプレートには『H/H』と記されているのを見ていたからだった。 その時は何のことなのか判らなかったが今日こうして再び訪れてみて気が付いたのだ。

 先週はいま真蒔が肩に掛けているリュックをディスプレイ・ハンガーから外して手に取り、じっくりと見ていたところで彼女から声を掛けられ、そして登山の話をしながら商品説明を聞いていた。 いわゆる山ガールなのだ。まだ浅いと謙遜してもいた。今夏の山行計画についても聞かせてくれていた。 真蒔も学生時分には登山の経験があったし、彼女の夏の計画ルートもたどったことがあったから会話は弾んだ。 そして、やはり懐かしさが湧いていた。

 その時に真蒔が手に取って見ていたのはアタック用途に開発された商品なのだというのが、いつの間にか横から現れていた彼女の第一声だった。 ただピークを目指すためだけに必要最小限の装備を詰めて背負うためのアイテム。 そのリュックを実は彼女自身も購入するか迷っているのだとも言っていた。そうした何故?から会話は始まっていった。


 商品を眺め流れて彼はTHE NORTH FACE側へ移っていった。 前回リュックが掲げられていた位置にはTシャツと配置を交換してリュックと同色のマウンテン・パーカーが三種類ほど吊るされていた (実は前回リュックのあった位置こそが誤りと思われる)。 彼はレインウェアの新調を検討中だったから本当はそちらの方をじっくりと見定めるべき境遇にあったのだが、目移りどころか目標へたどり着く前にリュックへ手を伸ばしていたのだ。 レインウェアではないから上下のセット商品ではないその分、あとで組み合わせの融通は利く。 そんな物色中にモール内では正午の時報が聞こえ、今日は購入目的ではないからなと調査活動を打ち切ることにした。 そしていつの間にか彼女の姿が見えなくなっている、いささか拍子抜けしたカウンターの方へとゆっくり進んで行った。

 彼はそこにいる、どこか落ち着きが感じられる年長の男性店員に思い切って尋ねてみた。 HELLY HANSENとは彼らの会社が取り扱うメーカーであり、同様にTHE NORTH FACEの方も展開している。 このショップは彼らの会社の直営店舗なのだった。そんな会社名には確かに…恐らくは学生時分に、聞き覚えがあった。 礼を言ってから店を出て振り返るとまだ見送られている。 随分と丁寧なんだなと思ったが、そんな風に感じるのは真蒔がいま自分で肩に掛けているリュックから意識が外れてしまっていたから、なのかもしれない。

 何かの[≠]引き合わせだろうか。 昼休み(?)で彼女がいなくなり、おかげで真蒔が本来もつべき自然でいられたような気もしていた。 彼はモールの外に出てゆっくりと日陰をたどってから立ち止まり、ウィンドウ越しにサイクルショップの高級品を眺めていた。 やがて彼は紙袋からバゲットを取り出し、眼前のモノ・フレーム車を見つめながら黙々と齧り始めていた。


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