【散文気分】 - 2013/2/5 Tue -



こんにちは。
節分を早二日ほど過ぎてしまってからお話しするのも、また縁なりかと。 そのような話題にあちらこちらで 触れ親しんでいる間によみがえる思いなどもございますでしょうし、そうした事柄をお話しする楽しみ程度は 自由にさせて戴きたいものだなあとも思いまする。

日〜月曜日とバタボケしていて… などと書き連ねてみても、結局は日曜日が忙しくしていて翌・月曜日には その疲れからなのか終日ボケっと過ごしていた。 などと追記や説明書きしなければばらないのは、大変に不便 を感じてしまいます。 確かにスラングといった言葉は周知されていてこそ功を奏する性質なのですから、 未来永劫に残したい事柄を書くのならば多用は禁物なのかもしれません。 しかし後世がどうしても読み解き たいのであれば発掘なり研究なりをし続けてでも、その言葉や文章の意味をきっと解明することでしょう。  なのでというワケでもありませんが、面白いのでこれからもその時の気分で使ってゆきたいと思います。  即席の造語も含めて。

昨年来で拝見させて戴いている海子さんのサイトで節分の話題に触れておられました。 節分グッズを買い求めて 以降のドタバタ劇が面白可笑しく書き連ねてありました。 グッズ(パン)の赤鬼が売り切れで仕方なく青鬼を 買い求めて云々とありましたので、やはり 「泣いた赤鬼」 のお話を連想してしまいました。 「♪赤い鬼が来たら、 鬼ごっこで遊べ。 青い鬼が来たら、針で目ン玉 突っつけ。」 などといった歌も覚えておりまする。 細かい ストーリーの説明は省きますが、省くほどに込み入ったお話でもなかったように思います。 心優しく寂しがり屋 の赤鬼が村の人々と仲良くしたいのと裏腹に、やはり鬼であることが災いして村人たちからは煙たがられており、 それを見かねた青鬼が手伝って一芝居うつと見事に上手くいき、めでたく赤鬼は村人たちと仲良くなり、青鬼は 村を出てゆくことになり、いなくなった青鬼をしのんで残された赤鬼が泣いた… といった内容ですか。  まことにザっとでありますが。

子供の頃にそんなお話は漠然と聞き流しておりました。 読み流してはおりませんでした。 目では挿絵を追って ました。 我が家にあったのはレコードだったのです。 そんな風に繰り返し聞いておりましたが、特に友情と いった物事について考え込んでみたり、いなくなった青鬼の心境について考えてみたりした思い出も残っては おりません。 しかし改めてこのストーリーを思い返してみると、その中から道徳や教訓を純粋に抽出して説明 するには、少々の無理を感じてしまいます。 要するにお話の中では語られてはいない事柄についての補足 などがないと、それは”こうなのだ”と言い切ることなどが難しいのかもしれません。 けれどもそれには逆の 捉え方もあると思うのです。 すべてを語りきらずに完結させてしまうことで、ストーリーの広がりを残して いるとも考えられます。 察するに翻訳という作業の難しいところでも、また楽しいところでもありましょうか。

青鬼は自らが犠牲になって村を出てゆくのですが、それは赤鬼のことが好きで大事な友であったからなので しょうか。 そうすることで大事な友から離れてゆかねばならぬ程に。

赤鬼にしてみれば、新たなる交友関係をもった村人たちとの間柄は、そのキッカケとしては上手くいっている かのような段階までしか判りませんし、村を出て行った青鬼のことを後から泣いて偲ぶほど大事な友であった ことを思い知るのでした。

このように簡単に思いつくことだけでも色々な疑問が浮かび上がります。 そして明解な答えや説明などが 残されてはいないこと、それだけがまた唯一の正解なのかもしれないのです。 そういった事柄に対する 考え方のことを、普通は解釈などといいます。 そして解釈には誤りと受け取られる場合もありますでしょう。  拡大解釈などと揶揄されるケースもございましょう。 逆にもう少し説明を求められることなどもあるのかも しれません。

少しズルイ収束のさせ方へと向かっておりますが、適宜適切な解釈というのは、聞き手にとっては色々と示唆に 富んだ事柄に気付かされ、その時に持った感想から自らも考え続けることへと繋がるものなのかもしれません。  また、時には素直な反発心から異論を展開させてゆくこともあるのでしょう。 しかし ”その答えはこうだ” という単純明解な説明が そうしたことを誘発させるなどとは少し考えにくいですし、皮肉な言い方をしてしまう のならば その程度の説明だけで色々と考えを掘り下げてゆくのは、なんだか逆に心配になってしまうような場合 もあるのかもしれません。

なにも ”Yes or No” で回答を求められる場で長い答えを述べてみたり質問を返してみたりすることをイタズラに 助長しようなどとは思いません。 要求に応える価値観に対しては素直に従うのが楽な道なのですから。  答えた後の責任を重んじて躊躇するのとはまた違いますし、むしろ そこまで求める質問者はサディストの 可能性がありますから、向き合い方を考え直す必要があるのかもしれません。 そして意地悪な言い方に聞こえて しまうのかもしれませんが、その程度の説明で理解できるのであれば、もはや説明などは無用であったのかも しれません。 第三者からの見解を、既に自らが漠然と持っていた根拠の”裏づけ”と出来ただけなのかも しれません。 意外に危険な解釈だとは思いますが。

さて、このお話は解釈についての解釈で締めくくろうとしていたのでした。
外側から見ていて素直に納得しかねる… といった事柄や境遇には、すなわちコチラ側からは見えていない部分 があって、それらの見えないチカラなりが作用していたり、誤った状況把握が邪魔しているからなのだと想像 するのは、例えば古典的な天体物理学をたかだか義務教育課程でそこそこ程度に学ぶだけでも感じ得られる事柄 です。 私はそのように解釈しております。

   《参考文献》
   ・Philosophiae Naturalis Principia Mathematica / Issac Newton (1687年)
   ・On the Revolutions of the Heavenly Spheres / Nicolaus Copernicus (1543年)










大袈裟にも程がアルのだなぁ…(汗






at 2.Feb.2013   around Hikijigawa-river

この時季、たとえそれが日当たりの良い花壇であっても 気付けば 「…おっ!」 と思うのに、それが野山ならば 喜びも倍増ですわぃ。


妙に暖かくなったこの日、ひと月後の啓蟄を思わせるかのように小さな虫や水辺の生き物が這い出てきている ようでして、この場所でもホンっト 久しぶりにザリガニを見ました。 知らないところでちゃんと生き延びてるんですよねぇ。

「…おぅ。 オマエもな!(笑」 って言われてますょ、
多分。 きっと(汗




at 3.Feb.2013   Suwa-jinja, near by my house.

節分の日曜日。 ふと思いつきで昼前にふらりと訪れてみたら 豆、 撒かれてましたなぁ。


そして見上げたら気付きました。

普通は気付いても写真なんて撮らないものなのでしょうか。 かく言う私だって間違えても絶対に撮らないで しょうね。 元気の無い時であったならば。

この日は午後から横浜の妹家族が遊びに来ました。
色々とサービスし過ぎて翌日にドっと疲れが出ました。
その報酬は使わなくなっていたギター2本です。
割に合いませぬ。

こんな時に ”TV-Jockey 日曜大行進” の 「奇人変人・大集合」 のコーナーを思い出すのは、 ボーダー何歳なのでしょうか。 …あぁ、”参加賞品”がジーンズとギターだったんすょ。 出し物が終わったら アシスタントのお姉さんから受け取って さっさと帰る、帰る! みたいな(汗

のちに番組ごと、たけしとその軍団に乗っ取られて熱湯コマーシャルが好評なようでしたが、アレって本当に熱湯 だったんすかねぇ?

そう、日曜の昼下がりは緩いバラエティ番組か白黒映画な印象でした。 喜劇・駅前シリーズや若大将とか。




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