【散文気分】 ─ 二○十二年十一月二十七日(火)その二 ─


 緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそこで中断した。僕はティッシュ・ペーパーで 痰を取ってやり、タオルで額の汗を拭いた。
「水飲みますか?」と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さなガラスの水さしで少しずつゆっくり 飲ませると、乾いた唇が震え、喉がぴくぴくと動いた。彼は水さしの中のなまぬるそうな水を全部飲んだ。
「もっと飲みますか?」と僕は訊いた。彼は何かを言おうとしているようなので、僕は耳を寄せてみた。 〈もういい〉と彼は乾いた小さな声で言った。その声はさっきよりももっと乾いて、もっと小さくなっていた。
「何か食べませんか? 腹減ったでしょう?」と僕は訊いた。父親はまた小さく肯いた。僕は緑がやっていた ようにハンドルをまわしてベッドを起こし、野菜のゼリーと煮魚をスプーンでかわりばんこにひと口ずつ すくって食べさせた。すごく長い時間をかけてその半分ほどを食べてから、もういいという風に彼は首を小さく 横に振った。頭を大きく動かすと痛みがあるらしく、ほんのちょっとしか動かさなかった。フルーツはどうする かと訊くと彼は〈いらない〉と言った。僕はタオルで口もとを拭き、ベッドを水平に戻し、食器を廊下に出して おいた。
「うまかったですか?」と僕は訊いてみた。
〈まずい〉と彼は言った。
「うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね」と僕は笑っていった。父親は何も言わずに、閉じようか 開けようか迷っているような目でじっと僕を見ていた。この男は僕が誰だかわかっているのかなと僕はふと思った。 彼はなんとなく緑といるときより僕と二人になっているときの方がリラックスしているように見えたからだ。 あるいは僕のことを他の誰かと間違えているのかもしれなかった。もしそうだとすれば僕にとってはその方が 有難かった。
「外は良い天気ですよ、すごく」と僕は丸椅子に座って脚を組んで言った。「秋で、日曜日で、お天気で、どこに 行っても人でいっぱいですよ。そういう日にはこんな風に部屋の中でのんびりしているのがいちばんですね、 疲れないですむし。混んだところに行ったって疲れるだけだし、空気もわるいし。僕は日曜日にはだいたい洗濯 するんです。朝に洗って、寮の屋上に干して、夕方前にとりこんでせっせとアイロンをかけます。アイロン かけるの嫌いじゃないですね、僕は。くしゃくしゃのものがまっすぐになるのって、なかなかいいもんですよ、 あれ。僕アイロンがけ、わりに上手いんです。最初のうちはもちろん上手くいかなかったですよ、なかなか。 ほら、筋だらけになっちゃったりしてね。でも一ヵ月やってりゃ馴れちゃいました。そんなわけで日曜日は 洗濯とアイロンがけの日なんです。今日はできませんでしたけどね。残念ですね、こんな絶好の洗濯日和 なのにね。
 でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気にしなくたっていいです。日曜日ったって他に やること何もないんですから。
 明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義はミドリさんと一緒なんです。『演劇史U』で、 今はエウリピデスをやっています。エウリピデス知ってますか? 昔のギリシャ人で、アイスキュロス、 ソフォクレスとならんでギリシャ悲劇のビッグ・スリーと言われています。最後はマケドニアで犬に食われて死んだ ということになっていますが、これには異説もあります。これがエウリピデスです。僕はソフォクレスの方が好き ですけどね、まあこれは好みの問題でしょうね。だからなんとも言えないです。
 彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身動きがとれなくなってしまうことなんです。 わかります? いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、誰もが それなりの正義と幸福を追求しているわけです。そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃう んです。そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、みんなの幸福が達成されるということは原理的に ありえないですからね、だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。それでどうなると思います?  これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。お前あっち行け、 お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。フィクサーみたいな もんですね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。エウリピデスの 芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・マキナが出てきて、そのあたりでエウリピデスの評価がわかれる わけです。
 しかしもし現実の世界にこういうデウス・エクス・マキナというのがあったとしたら、これは楽でしょうね。 困ったな、身動きとれないなと思ったら神様が上からするすると降りてきて全部処理してくれるわけですからね。 こんな楽なことはない。でもまあとにかくこれが『演劇史U』です。我々はまあだいたい大学でこういうことを 勉強してます」
 僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりとした目で僕を見ていた。僕のしゃべっている ことを彼がいささかなりとも理解しているのかどうかその目からは判断できなかった。
「ピース」と僕は言った。
 それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を殆んど食べなかった上に、昼の定食も半分残して しまったからだ。僕は昼をきちんと食べておかなかったことをひどく後悔したが、後悔してどうなるというものでも なかった。何か食べ物がないかと物入れの中を探してみたが、海苔の缶とヴィックス・ドロップと醤油があるだけ だった。紙袋の中にはキウリとグレープフルーツがあった。
「腹が減ったんでキウリ食べちゃいますけどかまいませんかね」と僕は訊ねた。
 緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本のキウリを洗った。そして皿に醤油を少し入れ、キウリに海苔を 巻き、醤油をつけてぽりぽりと食べた。
「うまいですよ」と僕は言った。「シンプルで、新鮮で、生命の香りがします。いいキウリですね。キウイなんか よりずっとまともな食いものです」
 僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりというとても気持ちの良い音が病室に響きわたった。 キウリを丸ごと二本食べてしまうと僕はやっと一息ついた。そして廊下にあるガス・コンロで湯をわかし、お茶を 入れて飲んだ。
「水かジュース飲みますか?」と僕は訊いてみた。
〈キウリ〉と彼は言った。
 僕はにっこり笑った。「いいですよ。海苔つけますか?」
彼は小さく肯いた。僕はまたベッドを起こし、果物ナイフで食べやすい大きさに切ったキウリに海苔を巻き、 醤油をつけ、楊枝に刺して口に運んでやった。彼は殆んど表情を変えずにそれを何度も何度も噛み、そして呑み こんだ。
「どうです?うまいでしょう?」と僕は訊いてみた。
〈うまい〉と彼は言った。
「食べ物がうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんです」
 結局彼はキウリを一本食べてしまった。キウリを食べてしまうと水を飲みたがったので、僕はまた水さしで飲ませて やった。水を飲んで少しすると小便をしたいといったので、僕はベッドの下からしびんを出し、その口をペニスの 先にあててやった。僕は便所に行って小便を捨て、しびんを水で洗った。そして病室に戻ってお茶の残りを飲んだ。
「気分どうですか?」と僕は訊いてみた。
〈すこし〉と彼は言った。〈アタマ〉
「頭が少し痛むんですか?」
 そうだ、というように彼は少し顔をしかめた。
「まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんてしたことないからどういうもんだかよくわからない けれど」
〈キップ〉と彼はいった。
「切符? 何の切符ですか?」
〈ミドリ〉と彼は言った。〈キップ〉
 何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。それから〈タノム〉と言った。「頼む」ということ らしかった。彼はしっかりと目を開けてじっと僕の顔を見ていた。彼は僕に何かを伝えたがっているようだったが、 その内容は僕には見当もつかなかった。
〈ウエノ〉と彼は言った。〈ミドリ〉
「上野駅ですか?」
 彼は小さく肯いた。
「切符・緑・頼む・上野駅」と僕はまとめてみた。でも意味はさっぱりわからなかった。たぶん意識が混濁して 錯綜しているのだろうと僕は思ったが、目つきがさっきに比べていやにしっかりしていた。彼は点滴の針がささ っていないほうの手を上げて僕の方にのばした。そうするにはかなりの力が必要であるらしく、手は空中で ぴくぴくと震えていた。僕は立ちあがってそのくしゃくしゃとした手を握った。彼は弱々しく僕の手を握りかえし、 〈タノム〉とくりかえした。
 切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配しなくてもいいですよ、と僕が言うと彼は手を下に おろし、ぐったりと目を閉じた。そして寝息を立てて眠った。僕は彼が死んでいないことをたしかめてから外に 出て湯をわかし、またお茶を飲んだ。そして自分がこの死にかけている小柄な男に対して好意のようなものを 抱いていることに気づいた。

 少しあとで隣の奥さんが戻ってきて大丈夫だった? と僕に訊ねた。ええ大丈夫ですよ、と僕は答えた。彼女の 夫もすうすうと寝息を立てて平和そうに眠っていた。
 緑は三時すぎに戻ってきた。
「公園でぼおっとしてたの」と彼女は言った。「あなたに言われたように、一人で何もしゃべらずに、頭の中を 空っぽにして」
「どうだった?」
「ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少しだるいけれど、前に比べるとずいぶん体が軽く なったもの。私、自分自身で思っているより疲れてたみたいね」
 父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったので、我々は自動販売機のコーヒーを買って TV室で飲んだ。そして僕は緑に、彼女のいないあいだに起こった出来事をひとつひとつ報告した。ぐっすり 眠って起きて、昼食の残りを半分食べ、僕がキウリをかじっていると食べたいと言って一本食べ、小便して 眠った、と。
「ワタナベ君、あなたってすごいわねえ」と緑は感心していった。「あの人ものを食べなくてそれでみんな すごく苦労してるのに、キウリまで食べさせちゃうんだもの。信じられないわね、もう」
「よくわからないけれど、僕がおいしそうにキウリを食べてたせいじゃないかな」と僕は言った。
「それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあるのかしら?」
「まさか」と言って僕は笑った。「逆のことを言う人間はいっぱいいるけれどね」
「お父さんのことどう思った?」
「僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、でもなんとなく良さそうな人だっていう気は したね」
「おとなしかった?」
「とても」
「でもね一週間前は本当にひどかったのよ」と緑は頭を振りながら言った。「ちょっと頭がおかしく なっててね、暴れたの。私にコップ投げつけてね、馬鹿野郎、お前なんか死んじまえって言ったの。 この病気ってときどきそういうことがあるの。どうしてだかわからないけれど、ある時点でものすごく意地悪く なるの。お母さんのときもそうだったわ。お母さんが私に向かってなんて言ったと思う? お前は私の子じゃ ないし、お前のことなんか大嫌いだって言ったのよ。私、目の前が一瞬まっ暗になっちゃった。そういうの って、この病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、人を苛立たせて、それであることないこと 言わせるのよ。それはわかっているの、私にも。でもわかっていても傷つくわよ、やはり。これだけ一所懸命 やっていて、その上なんでこんなこと言われなきゃならないんだってね。情けなくなっちゃうの」
「わかるよ、それは」と僕は言った。それから僕は緑の父親がわけのわからないことを言ったのを思いだした。
「切符? 上野駅?」と緑は言った。「なんのことかしら? よくわからないわね」
「それから〈頼む〉〈ミドリ〉って」
「それは私のことを頼むって言ったんじゃないの?」
「あるいは君に上野駅に切符を買いにいってもらいたいのかもしれないよ」と僕は言った。「とにかくその 四つの言葉の順序がぐしゃぐしゃだから意味がよくわからないんだ。上野駅で何か思いあたることない?」
「上野駅……」と言って緑は考えこんだ。「上野駅で思い出せるといえば私が二回家出したことね。小学校 三年のときと五年のときで、どちらの時も上野から電車に乗って福島まで行ったの。レジからお金とって。 何かで頭に来て、腹いせでやったのよ。福島に伯母の家があって、私その伯母のことわりに好きだったんで、 そこに行ったのよ。そうするとお父さんが私を連れて帰るの。福島まで来て。二人で電車に乗ってお弁当を 食べながら上野まで帰るのよ。そういうときね、お父さんはすごくボツボツとだけれど、私にいろんなこと 話してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの話だとか、私が生まれた頃の話だとか、 そういう普段あまりしたことないような話ね。考えてみたら私とお父さんが二人きりでゆっくり話したの なんてそのときくらいだったわね。ねえ、信じられる? うちのお父さん、関東大震災のとき東京のどまん中に いて地震のあったことすら気がつかなかったのよ」
「まさか」と僕は唖然として言った。
「本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤカーつけて小石川のあたり走ってたんだけど、何も 感じなかったんですって。家に帰ったらそのへんの瓦がみんな落ちて、家族は柱にしがみついてガタガタ 震えてたの。それでお父さんはわけわからなくて『何やってるんだ、いったい?』って訊いたんだって。 それがお父さんの関東大震災の思い出話」緑はそう言って笑った。
「お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマティックじゃないのね。みんなどこかずれ てるのよ、コロって。そういう話を聞いているとね、この五十年か六十年くらい日本にはたいした事件なんか 何ひとつ起こらなかったような気になってくるの。二・二六事件にしても太平洋戦争にしても、そう言えば そういうのあったっけなあっていう感じなの。おかしいでしょ?
 そういう話をボツボツとしてくれるの。福島から上野に戻るあいだ。そして最後にいつもこういうの。 どこいったって同じだぞ、ミドリって。そう言われるとね、子供心にそうなのかなあって思ったわよ」
「それが上野駅の思い出話?」
「そうよ」と緑は言った。「ワタナベ君は家出したことある?」
「ないね」
「どうして?」
「思いつかなかったんだよ。家出するなんて」
「あなたって変わってるわね」と緑は首をひねりながら感心したように言った。
「そうかな」と僕は言った。
「でもとにかくお父さんはあなたに私のことを頼むって言いたかったんだと思うわよ」
「本当?」
「本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなんて答えたの?」
「よくわかんないから、心配ない、大丈夫、緑さんも切符もちゃんとやるから大丈夫ですって言っといたけど」
「じゃあお父さんにそう約束したのね? 私の面倒みるって?」緑はそう言って真剣な顔つきで僕の目を のぞきこんだ。
「そうじゃないよ」と僕はあわてて言いわけした。「何だかそのときよくわからなかったし──」
「大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ」緑はそう言って笑った。「あなたってそういうところ すごく可愛いのね」
 コーヒーを飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすりと眠っていた。耳を近づけると 小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれて窓の外の光はいかにも秋らしいやわらかな物静かな色に変化 していった。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして去っていった。僕と緑は部屋の隅に二人で並んで 座って、小さな声でいろんな話をした。彼女は僕の手相を見て、あなたは百五歳まで生きて三回結婚して 交通事故で死ぬと予言した。悪くない人生だな、と僕は言った。
 四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、水を飲ませたり頭の痛みのことを 訊いたりした。看護婦がやってきて熱を測り、小便の回数をチェックし点滴の具合をたしかめた。僕は TV室のソファーに座ってサッカー中継を少し見た。
「そろそろ行くよ」と五時に僕は言った。それから父親に向かって「今からアルバイトに行かなきゃ ならないんです」と説明した。「六時から十時まで新宿でレコード売るんです」
 彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。
「ねえ、ワタナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、今日のことすごく感謝してるのよ。
ありがとう」と玄関のロビーで緑が僕に言った。
「それほどのことは何もしてないよ」と僕は言った。「でももし僕で役に立つのならまた来週も来るよ。 君のお父さんにももう一度会いたいしね」
「本当?」
「どうせ寮にいたってたいしてやることもないし、ここにくればキウリも食べられる」
 緑は腕組みして、靴のかかとでリノリウムの床をとんとんと叩いていた。
「今度また二人でお酒飲みに行きたいな」と彼女はちょっと首をかしげるようにして言った。
「ポルノ映画は?」
「ポルノ見てからお酒飲むの」と緑は言った。「そしていつものように二人でいっぱいいやらしい話しを するの」
「僕はしてないよ。君がしてるんだ」と僕は抗議した。
「どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっぱいお酒飲んでぐでんぐでんに酔っ払って、 一緒に抱きあって寝るの」
「そのあとはだいたい想像つくね」と僕はため息をついて言った。「僕がやろうとすると、君が拒否 するんだろう?」
「ふふん」と彼女は言った。
「まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来てくれよ、来週の日曜日に。一緒にここに来よう」
「もう少し長いスカートはいて?」
「そう」と僕は言った。

 でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父親が金曜日の朝に亡くなってしまった からだ。
 その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がかかってきていることを教えるブザーが 鳴って、僕はパジャマの上にカーディガンを羽織ってロビーに降り、電話をとった。冷たい雨が 音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静かな声で緑が言った。何かできること あるかな、と僕は訊いてみた。
「ありがとう。大丈夫よ」と緑は言った。「私たちお葬式には馴れてるの。ただあなたに知らせたかった だけなの。」
 彼女はため息のようなものをついた。
「お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところであなたに会いたくないの」
「わかった」と僕は言った。
「本当にポルノ映画につれてってくれる?」
「もちろん」
「すごくいやらしいやつよ」
「ちゃんと探しておくよ、そういうのを」
「うん。私の方から連絡するわ」と緑は言った。そして電話を切った。



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私には知り合って丸9年になるメル友がおりますコトなどは、もう何度か触れて来ましたか。

この秋、彼女のお父さまがお亡くなりになりました。 家業の方は数年前から実質お兄さまが切り盛りしている のを聞いて知ってはおりましたが、そのまま継がれたそうです。 特に何も知らせて来ませんから、きっと従来 どおりに彼女も一緒に手伝い続けているのでしょう。

そして知り合った頃には仕事の上で どことなく頼りなかった彼女も、もう立派なキャリア組なのでしょうか。  お互いにそれ程には多くの素性を語り合いませんから、本当は既に家庭を持っていたりするのかもしれませんが、 そんなことなどは聞いておりません。

彼女からお父さまのご逝去にまつわる話を聞いていて、そして私が母を看取った経験や、父との今の暮らし振り なども手伝ってなのか、そんな風にして湧き上がって来たのが今日の本文へ引用した一節なのでした。  ストーリー要素は少なく情景描写が淡々と続きます。

ただそれだけなのであって、他には何も意図などはありません。 ふいに こころの共鳴がそこへリンクして しまったのかなと想像します。 そんな時に現実の世界では、情念に揺り動かされるがままに、両腕で力強く その相手を抱きしめたりもするのでしょうか。

遥か西方の空へ向けて手を合わせつつ、少しだけ、やるせないものだなと思いました。


            at 2.Dec.2006  Morinoterasu in Sengawa

            


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