【散文気分】 - 2011/08/11 Thu -


食事が終わると二人で食器を片付け、床に座って音楽を聴きながら残りのワインを飲んだ。 僕が一杯飲む あいだに彼女は二杯飲んだ。

直子はその日珍しくよくしゃべった。 子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを彼女は話した。  どれも長い話で、細密画みたいに克明だった。 たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心して いた。 しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気になりだした。  何かがおかしいのだ。 何かが不自然で歪んでいるのだ。 ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋も とおっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。 Aの話がいつのまにかそれに含まれるBの話に なり、やがてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。 終わりというものが なかった。 僕ははじめのうちは適当に相槌をうっていたのだが、そのうちにそれもやめた。 僕は レコードをかけ、それが終わると針を上げて次のレコードをかけた。 ひととおり全部かけてしまうと、 また最初のレコードをかけた。 レコードは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は「サージェント ・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で、最後はビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」 だった。 窓の外では雨が降りつづけていた。 時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけていた。

直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないように気をつけながら話していることにある ようだった。 もちろんキズキのこともそのポイントのひとつだったが、彼女が避けているのはそれだけでは ないように僕には感じられた。 彼女は話したくないことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような 事柄の細かい部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。 でも直子がそんなに夢中になって 話すのははじめてだったし、僕は彼女にずっとしゃべらせておいた。

しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。 直子はもう四時間以上ノンストップでしゃべり つづけていた。 帰りの最終電車のこともあるし、門限のこともあった。 僕は頃合を見はからって、彼女の 話に割って入った。

「そろそろ引き上げるよ。 電車の時間もあるし。」と僕は時計を見ながら言った。

でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。 あるいは耳には届いていても、その意味が理解できない ようだった。 彼女は一瞬口をつぐんだが、すぐにまた話のつづきを始めた。 僕はあきらめて座りなおし、 二本目のワインの残りを飲んだ。 こうなったら彼女にしゃべりたいだけしゃべらせた方が良さそうだった。  最終電車も門限も、何もかもなりゆきにまかせようと僕は心を決めた。

しかし直子の話は長くはつづかなかった。 ふと気がついたとき、直子の話は既に終わっていた。 言葉の きれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。 正確に言えば彼女の話は終わったわけでは なかった。 どこかでふっと消えてしまったのだ。 あるいはそれを損なったのは僕かもしれなかった。  僕が言ったことがやっと彼女の耳に届き、時間をかけて理解され、そのせいで彼女をしゃべらせつづけて いたエネルギーのようなものが損なわれてしまったのかもしれない。 直子は唇をかすかに開いたまま、 僕の目をぼんやりと見ていた。 彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。  彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。

「邪魔するつもりはなかったんだよ。」と僕は言った。 「ただ時間がもう遅いし、それに・・・」

彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音をたててレコード・ジャケットの上に落ちた。 最初の涙が こぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。 彼女は両手を床について前かがみになり、まるで吐く ような格好で泣いた。 僕は誰かがそんなに激しく泣いたのを見たのははじめてだった。 僕はそっと手を のばして彼女の肩に触れた。 肩はぶるぶると小刻みに震えていた。 それから僕は殆ど無意識に彼女の体を 抱き寄せた。 彼女は僕の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣いた。 涙と熱い息のせいで、僕の シャツは湿り、そしてぐっしょりと濡れた。 直子の十本の指がまるで何かを──かつてそこにあった大切な 何かを──探し求めるように僕の背中の上を彷徨っていた。 僕は左手で直子の体を支え、右手でそのまっすぐ なやわらかい髪を撫でた。 僕は長いあいだそのままの姿勢で直子が泣きやむのを待った。 しかし 彼女は泣きやまなかった。








At Kawasaki -10.August.2011-



盆休み前の開放感をいつも立ち寄るショットバーで味わってしまったので、終電車を乗り過ごしてしまいました。  職場に戻って仮眠をとってから始発で帰ろうと思ったのですが、向かうウチに戻りたくはないような、戻っては いけないような感覚に見舞われて、そのまま考え事をし続けながら ゆっくりと国道1号を下りました。  過去に1度だけ、元同僚と二人で歩いたことのアル経路をその記憶に委ねて歩き続け、ずっと考えておりました。

それでも朝の到来が意識の中に割って入ってきた頃には、いつしか考え事は止まっておりました。
そして職場に戻らずに良かったのだと、その時になって確信しました。

JR川崎駅からは、既に動き始めていた東海道線・小田原行きに乗り、座ってから眠りにつきました。





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